昭和41年12月20日 夜の御理解
例えば、真剣が、ふりかかってくる場合、それを、手で受けたり、五体ごと受けるということはできません。やはり、それには、それに対した受け物を持って、受け止めなければなりません。刀を持ってこう、振りかぶって・・、それを、体ごと、手で受ける、何てできません。ように、おかげもですけれども、特に、一つの災難と言ったようなものを、受け止めるということは、そこに、それだけの信心が、必要なんです。
このことを、どういうふうな意味にいただいてよいか、分かりませんけれども、例えば、親鸞聖人様の、苦難のことをですね、山伏の、べんねんが、一晩中、聖人様の命を狙って、ところがその、上に来れば、下、下に来れば上と、いうようにその、そういう一つの災難を、抜けくぐっていかれるように、この、くぐっていかれる、その聖人様の御信心というものがですね、その、ご立派であったかということをまあ、感じるわけですけれども、まあ、そういう意味なんです。
災難がかかって、こうきよっても、それを、抜けれるだけの、右か左かそれをくぐっていけれえるような、ひとつおかげをいただく為には、どうでもそれだけの、やはり、受け物。ただここんところはですね、おかげは和賀心にありと仰るような、ものじゃないと思う。一心に頼めい、おかげは和賀心にありと仰る、これだとね、違うんですね、おかげは和賀心にありと仰る、。けれども、一心に願え、おかげは和賀心にありというのとは、一心に願えというところですね。そういうその一心に願う、すがっておる、言うならば、お広前参拝がおっくうにでもなっておる時には、一心とはいえませんですね。
そういう信心では、私これは、受け止められないという意味ではなかろうかと、いや私は、このことをどう頂いて言いかわかりません、私自身も。けれども、ただ真剣が振りかかっておるときに、手では受けられんっていうことを今日頂くんです。それで、私は私なりに、そうした解釈をつけたのでございますけれども、確かに、手や五体では受けられません。ほんとにそれには、それだけの、受け止める為には、一心に願え、おかげは和賀心にありという、一心に願わせていただいておる信心。もう家から一心に願いよります、これではね、私一心とは、いえないと思うのですね。だから、そういうようなところを一つ分からせていただいて、ほんとに、一心を出さなければと、はーこんなことじゃいけん、と思う人はですね、ほんとにその一心の出所というものを研究してですね、一心を出したらどのようなことが出来るかと。
よう朝の御祈念に、お参りしたり、明日の朝にはどうぞお参りが出来ますように、明日はどうぞとと、お願いをするんですけれども、その、あくる日になってやはり目が覚めない。またそれを、神ながらと言うような、言い方をするようなら、(いっせき?)ではね、私は今日、私が言う、その、おかげにはなってこないと思うのですね。振りかかって来るきなんというものをです、そこを見て区別するようにです、その、おかげ頂いていくと言うようなことできないと。だから、どうぞ明日のことを、例えば願わせていただいたらです、そこには、私は一心の立てかたというものがですね、まだ足りないのだと思う。
まあこれは私のこと言うておかしいですけれども、私が、朝の御祈念なら朝の御祈念に、出てまいりますです。これなんかはもう私は一心だと思うんです。ですから、やはりあの、おかげを下さる。神様がおかげを下さる。今日どなただったでしょうか。最近熱心に参ってくる方が(あったね?)、もうほんとに、間違いなく起こしていただくというて・・・・。今朝あの見えない、昨日勉お届けしとりました。ですからあの、やはり、私どもの、一心に願えと仰る信心とは、一心に願うという信心。しかもその一心に和賀心を願うというのですから、和らぎ喜ぶ心を願うというのですから、これはやはり、そういうおかげがですね、そういう状態がです、どのような真剣を持って、振りかぶってくるような場合であっても、そこはほんとに、まあ平気でというかね、この、( ? )と言うか、(抜けつ抜けつ?)、言わば、上を狙えば下にござり、下を狙えば、上の、その、南無阿弥陀仏の、声がしておるといったようなですね、いわゆる、おかげが頂けるようになるとこう思うですね。どうぞ、そこんところもう少し皆さんは皆さんで、練っていっていただきたい・・・。例えば真剣を、手で受けることは出来ない。五体で受けることは出来ない。それはそういう、に対する、受けものがあるということ・・・・・・・。どうぞ。